京論壇の責任とは

■京論壇2014を終えて

こんにちは。京論壇2014社会的責任文化会メンバーの南です。
社会的責任分科会としてファイナルプレゼンテーションを終えて、
ようやく京論壇を通じて私が学んだこととは何だろうといったことを考える時間も増えています。

京論壇の本セッションを通じ、速いテンポの英語や『価値観の議論』という私にとっては初めての議論に戸惑い
予想とはずいぶん異なる実際の議論に苦しみました。

本日は社会的責任分科会として達成できたこと、できなかったことを一参加者の視点から綴らせていただきます。


■『社会的責任』概念の共通性・個別性を探れたか

議論最終日に、自分たちにとっての社会的責任の振り返りをする時間をとりました。
社会的責任の果たし方を
①責任意識(何かしなければという想い)
②行動(実際に責任を果たすためにとっている行動)
③結果(その行動の結果)
の3つのプロセスで捉えたとき、どのプロセスが大事か。
自分たちにとって責任を負っている社会とは何か。等の問いに答えることでそれぞれが自分たちの学びや変化を共有しました。

議論の中で【行動】が自分にとって重要だという結論にたどり着いた参加者もいれば、
他人にとって国家がこれほど重要だったとはという発見をした参加者もいました。
全員に共通する認識の確認やこれら個々の発見は一つの成果だと思います。


ただ、なぜその要素が自分にとって重要なのかという個々の背景についてはあまり深く追及できなかった印象があります。
一つの原因としては、社会的責任という言葉があまりにも抽象的で自分の中で固め言語化する作業に相当時間がかかったことが挙げられます。
もう一つは自己開示のむずかしさです。
これはあくまで私の主観ですが、難しい議論が飛び交っている最中、出会って間もない友人らに自分の根幹にかかわる話はなかなかできないと感じました。
というのも、社会的責任についての議論では個々の正義感が現れるために、自分の根幹部分を表明しなければならないからです。

議論を通じ日中大学生の個人の感性を深く読み解く、というところまで議論を深めきれなかったのが残念です。


■日中大学生の相互理解は深まったか

それでは日中の相互理解は深まったといえるでしょうか。

議論を通じて北京大と東京大がぶつかることが幾度かありました。
議論方法についても、内容についても、まとめ方についても。
誤解が元だったとはいえ、プレゼン方法についての議論で北京側から出た
「あなたたちの提案なら上手なプレゼンはできるかもしれないけど、それには嘘が入っている。私はプレゼンで嘘は絶対つきたくない」という意見は私の記憶に強く残っています。
衝突が生じるたびにお互いが納得できる妥協点を両大学のほうから提案し、模索している様子が見られました。


もちろんこれを一概に日中の違いの克服とは言えません。
ですが、ここには重要な点があったと思っています。

それは、そもそもぶつかることができたことです。
相手の文化や意見をそのまま受け入れることは、理解ではありません。受容です。
相手の意見を聞いて、ああ君はそうなのかと聞くだけでは相手に自分を理解してもらう機会を逃してしまいます。
また自分が自分の意見をきちんと伝えないことは、相手が他人の意見を知る機会を奪っていることであるとも言えます。

ぶつけたあとどこまで自分たちの意見を主張するかは東大内でも意見はわかれていましたが、最初の『ぶつける』という段階は"ある程度"クリアできていたと思っています。

では具体的にどこで"ある程度"という限界を感じてしまったかというと、お互いへのフィードバックをするときでした。

日本側参加者同士だと数か月一緒に準備してきたこともあり、ある程度きつい言葉をお互いに言うこともできていました。
ところが北京側参加者には相手から「私話しすぎかな」とフィードバックを求められたとき、つい「でも議論のはじめに意見を言ってくれて助かってるよ!」
などポジティブなフィードバックしかなかなかできない自分を見つけました。
これは他の参加者の多くにも共通していたと思います。

こうした些末なところで遠慮してしまうということは、まだ互いの本音に近づくには少し遠いと感じました。

■京論壇の責任

総じて、日中のリアルに近づくことができたかというと
あともう1週間あれば。という思いが個人的にはとても強いです。

結局一部の大学生が、社会的責任という限られたトピックを話すだけで、日中の違い等が全て明確になるとは思いません。
ですが、日中の違いに関して取り組む姿勢と経験はできたと思います。
そしてその姿勢を保ち経験を活かすことは社会が急速に拡大していく中に生きる私たちの最低限の責任だと思います。

自分たちが得ることができたものは、社会に活かしていくこと。
自分たちが得られなかったものは、京論壇2015に活かしていくこと。

これが私たち京論壇の責任の果たし方です。
京論壇2014は幕を閉じましたが、今後もこうした考えを持ち続けられるメンバーであり続けたいと思います。

若者の明日は変えられたか

若者分科会の井上です。

去る10月5日、京論壇2014の集大成である最終報告会が行われました。
当日は来賓の皆様をはじめ、豪雨の中たくさんの方にお越しいただいたことで、温かいご支援あっての活動であることが身に沁みました。本当に、ありがとうございました。

 

◎自分が熱くなれるテーマは何か

この日に至るまでの一週間の東京セッション中、若者分科会ではとある変化が起きていました。

それは、「共に創り上げている」という感覚。

北京セッションでの私たちのつまずきの一要因は、北京大生が求めているものを表面的にしか理解しようとせず、議論が噛み合わなかったことにありました。「議論を通して社会問題への解決策を考えたい」という北京大生の意気込みに、「彼らはネットで検索すれば出てくるような、日中間のわかりやすい違いに飛びついて満足してしまうのではないか?」という疑念を抱き、説得にやっきになっていたのです。

しかし、東京セッションの初め、「人生のゴールを設定するのとしないのとでは、どちらがいい?」という質問で北京大生の意見が分かれて以降、東大生と北京大生、入り交じって賛否の議論が白熱するようになりました。
この質問は抽象的で、日中の社会差を特に意識してはいませんでした。にも関わらず、参加者誰もが当事者としてこだわりをもつテーマを持ち出すことで、全員が積極的に口を開き始め、人生の指針や夢を語り合う場が自然と出来上がっていったのです。

それ以降、議論は全員の共同作業なんだなと実感するようになりました。
議論の口火を切るためのキークエスチョンを皆で推敲し合い、大学問わず自分と異なる意見を真剣に理解しようとしていました。言葉に表しきれない想いに、見ていた北京大生が「I understand your point.」と助け舟を出して補足してくれたことも何度もあります。議論が停滞して雰囲気が重くなったときは、皆で一曲踊って盛り上がることも忘れませんでした(笑)。

 

◎やがて見えてきた「社会」の実像を映し出す体験

その一方、個人の感性をぶつけ合う中で、やはり背景の違いからくると思われる人生経験の違いに目を向けざるを得ないことにも気付きました。

たとえば、政治に対する意識の違い。日本の若者の間で、選挙の結果が政治を変えるという実感が低いことが課題として挙がると、中国ではシステムこそ民主的でなくても政権に人民が影響を及ぼしている実感がある、との反応。
中国の若者が改革開放後の経済成長の恩恵を受け、さらにSNSの発信力を備えた最初の世代であることを考えると、一党体制でも自分たちの意見を政治に反映させられるという自信・安心はある程度説明がつくことなのかもしれません。

もちろん個人の意見から敷衍して社会分析をすることに危険はあり、それは全員が分かったうえで進めていましたが、東大生・北京大生間の姿勢の違いが感じられる場面は多く興味深かったです。

 

◎私たちが京論壇で目指したもの

京論壇で、社会に還元していくべきものとは何だろう。

若者分科会はこの問いに繰り返しぶち当たってきました。

学生の感覚の議論で、学者が論文に書くような発見をすることは困難です。それでは何が大事かといえば、「相手のリアルを捉えること」「自分では思いもよらなかったような、思考の制約条件に気付くこと」に尽きるのだと思います。

最終発表では、個々の知識としての発見を並べるだけでなく、このことの価値を大きなメッセージとして伝えさせていただきました。
参加者一人一人が自分の常識を変えていくことの大切さ、それが可能であることを、少しでも感じ取っていただけたなら幸いです。

北京大生との解散間際に議長が言った「My goal is that we become a family!」という名台詞は忘れられません。どこまでも、青臭い分科会だったなと思います。でもその空気を、北京大生も東大生も確かに共有していました。

相手への共感とそこから生まれる学びのプロセスを通して、若者はよりよい未来を創ることができる。この実感を大切に、日々を過ごしていく所存です。

一般論との違い

メディア分科会の茂木です。東京セッションも後半に差し掛かり、議論も私たちの目標に直接的に関わる内容となってきました。

私たちメディア分科会の目標は「メディアを通じて日中関係を変える」ことであり、北京セッションではメディア一般を扱いました。東京セッションでは、日中関係という文脈におけるメディアに焦点を当て、参加者個人とメディアとの関係、メディアが果たすべき役割、メディアを通して私たちにできること、を中心に話し合っています。

興味深かった議論の一例として、日中関係という文脈においてメディアが果たすべき役割について話し合う際に用いたケーススタディが挙げられます。「A国のマスメディアがB国との領土問題に関してA国に不利な情報を得たとし、そのような状況において、A国のマスメディアは国益を害さないように情報の取捨選択をするべきか、それともあらゆる情報を受け手に提示するべきか」という問いから出発しました。国益の捉え方などメディアというトピックから逸れた話にも議論が飛びましたが、最終的に「メディアは外交問題一般に関する報道において、国益を優先すべきか、それとも真実を伝えることを優先すべきか」という問いに対する答えを考えました。北京セッションにおいて、メディアの役割として「真実を伝える」ことを程度に差はありつつも全員が求めていたのに対し、今回の議論では「国益を優先すべき」と主張する参加者が北京大側は全員、東大側においても多数であり、一般論と国益に関わる議論とにおいて相反する考えを持っていることが明らかになりました。その中でも、北京大側が政府規制を支持する傾向がある一方で、東大側はメディアの自主規制に期待する傾向があるという違いが見られました。一般論においても国益においてもある程度の政府規制を支持する北京側に対し、国益に関わる議論では一般論と異なる意見を提示した東大側の一人として、私はメディアに求める機能についてジレンマを強く感じました。政府規制一般について話していた時より国益に関わる議論の時の方が、北京大生が政府規制を支持する理由を深く理解できた気がします。これらの議論を通して、日中関係に関する報道においてメディアに期待する役割を深く考える機会となりました。

北京・東京両セッションの集大成として、メディア分科会の最終目標である「日中関係の改善のためにメディアを通して私たちにできること」を話し合い始めました。約2週間の議論を通して私たち参加者が経験した発見や変化を、私たちのみに留めずに周囲に広め、互いの国に対するイメージを考え直す機会を設けることを目的としています。私たち学生でも簡単に発信者となることができるソーシャルメディアを活用し、効果的な記事を投稿できるよう、自分自身の発見を振り返りつつ、今までの議論で考えたソーシャルメディアに期待する役割なども意識して議論を続けていきたいと思います。

方向性の定まらない若者分科会と、その試行錯誤の日々

 先日、北京セッションが無事終了しました。文字通り朝から晩までの徹底的な議論、長城の名所・八達嶺へのワンデイトリップ、中間発表に向けたプレゼンテーションの準備、そして延泊希望者は北京観光と、たいへん充実した日々を過ごしました。

 

●若者分科会の議論の流れ

 私の属する若者分科会では、北京セッションにおいて「職業選択」(個人)と「ステレオタイプ」(社会)という二つの側面から、私たち自身を含む日中の若者の考え方の異同、ならびにそれらを支える根源的な価値観を、明らかにしようと試みました。

 …この一文にたどり着くまでに、どれほどの時間を費やしたことでしょう!

・議論初日、二日目

 分科会全体の目的の明確化・共有と、それを達成するために取るべき方法論という、議論の前提をなす部分について議論を行いました。半日くらいで片が付き本題の面白い議論に入れるだろう、誰もがそう楽観的に捉えていました。ところが、その目的の共有こそが大きなネックであったのです。東大生は、当団体の代名詞ともなっている「価値観の議論」、具体的にはWHYを聞き続けることで個人の価値観を掘り下げ気づきを得ること、を主張しました。それに対し北京大生は、それでは個人的に過ぎ、十人の意見だけから一般的な結論を導き出すのは困難だから、日中の社会差に着目すべきだと主張しました。目的と方法をめぐるこの議論は、二日間平行線を辿りました。それもそのはず、どちらの意見も極めてまっとうなものであるからです。どうやったら東大生・北京大生が共に楽しめてかつ有意義な結果を出せる議論ができるのか―深夜まで調整を重ねる日々が続きました。

・議論三日目

 抽象的な議論に限界を感じていたこともあり、両大学の学生が強い問題意識を持つテーマであるキャリア選択を扱うことで合意しました。この議論の目的は、人生の選択において自分が何を重視しているのかを認識し、また北京大生の持つ全く異なる価値観に触れ新たな気づきを得ることです。私たちは、各人のキャリア選択に対する理由を九つの価値観に分類し、参加した東大生・北京大生がどのような価値観を重視する傾向にあるのかを、それらの価値観への順序付けを集計することで明らかにしました。その後、両大学間で有意な差の見られた「経済的安定を求めるかリスクをとるか」という価値観対立を取り上げ、理由を掘り下げました。すると、自国経済の発展に対する自信或いは不安が大きくこの問いへの答えに影響することが判明しました。そこで、経済的要素を捨象するため「給与一定制(平均程度の賃金)と、最低賃金+業績ベースの変動給与制のどちらを選ぶか」と質問を改めたところ、日中間に差のない結果となりました。ここから、安定に対する考え方は本質的に似通っている、という発見を得ることができました。

・議論四日目

 日中社会に対するステレオタイプを議論の対象としました。この議論は、相手国に向けた自分のステレオタイプを修正してもらうことで、日中社会への相互理解を深めることを目的としています。北京セッションでは、家族や同僚といった周囲の人々との関係の捉え方に注目しました。まず家族に関しては、中国人は親を大切にするというステレオタイプに基づいて、「家族に近い地方都市で平均程度の収入の仕事に就くか、家族から離れた大都市で高収入の仕事に就くか」という質問を投げかけました。すると、北京大生含め全員が後者を選択し、東大生は驚きを隠せませんでした。儒教的価値観に反するのではないかという問いに対し北京大生は、儒教的な「孝」の概念は、親に盲目的に従うという古来の教えから、合理的計算のもと結果的に親を幸せにできれば良いという考えへと変化しつつある、という壮大な意見を述べてくれました。また同僚に関しては、日本人は飲み会など職場の付き合いを断れず、その背景にはピア・プレッシャーや厳しい上下関係がある、というステレオタイプが北京大生から挙げられました。そこで、「あなたは会社の新入社員とする。周り全員の同僚が行く徹夜の飲み会に、あなたは最後まで参加するか」という問いを投げかけました。この投票結果は、殆どの東大生は参加し、北京大生は誰も参加したがらないという予想通りのものとなりました。ところがその理由を深掘りすると、上記の背景もあるものの、職場の人間関係を大切にし友達のように付き合おうとする東大生の傾向が大きく影響している、ということが明らかになりました。この傾向は、仕事は仕事だとビジネスライクに割り切る北京大生とは、まさに好対照をなすものとなりました。

 

●本当の気づきとは

 上の要旨のみを一読すれば、議論がスムーズに進んでいるように思われるかもしれませんが、実際は紆余曲折・試行錯誤の連続でした。議論に費やした時間に比して得られた結果があまりに少ないのではないか、そのような批判を免れることはできません。

 しかし、議論が進展せずにもがく、この試行錯誤の過程こそが、私にとっては大きな気づきを与えてくれる機会であったとも思うのです。最初の二日間、事前に準備した議論のフレームワークを北京大生に納得させようとするあまり、北京大生と一緒に議論を作る過程を楽しむ意識が、いつしか欠落していました。その時に聞いた、「まずは相手の考えを受けとめること」という代表のアドバイス、「今の議論には笑顔がないよ」という他参加者のつぶやき。これらの言葉は、自分が如何に独りよがりに言いたいことを言って自己満足に浸っていたか、ということを痛感させてくれたのです。

 京論壇の特徴、本音の議論。私はその意味を履き違えていたようです。周りの意見を聞かずに自分の言いたいことを辺り構わずぶちまけるのではなく、周りの意見を受けとめ共感を示すこと。周りが本音を言わないのを責める前に、自分が周りの本音を引き出せていないのだと恥じること。当たり前に見えてすこぶる難しいこれらのことを気づかせてくれた、京論壇という場に改めて感謝したいと思います。

 

 閑話休題、やがて東京セッションが始まります。優秀な人々に囲まれてあと一週間議論ができる幸せ、またそのような贅沢を支援してくださる大勢の方々のご厚意を胸にしまって、全力投球していきます。

 

文責:小野顕(若者分科会参加者)

折り返し地点-社会的責任分科会-

こんにちは。京論壇2014社会的責任分科会に所属している杉山です。北京セッションが終わり、先日帰国しました。

 

私たちの分科会は、社会的責任という曖昧で個々の価値観に寄るところの多いテーマを扱っています。2週間の議論を通じての目標は、それぞれの考える社会的責任とは何かを明確にし、どうしてそのような考えに至ったのか背景を探ることです。議論の前半戦である北京セッションでは、具体的事案に対して社会的責任かどうかを問う質問を設け、その賛否と理由を聞きました。議論のなかから社会的責任の要素を取り出してそれらを比較することによって、社会的責任に対する自らの価値観をはっきりさせ、そのうえでなぜそのような価値観を持つようになったのかを議論しました。

例えば、消費者としての社会的責任として次のような問いを立てました。「自分の国が他国と大きな政治的な問題(領土問題など)を抱えているとき、相手国の製品を買わずに自国製品を買う社会的責任があるのか」東大生のほとんどが否定的に答えたのに対し、議論に参加していた5人の北京大生は全員が肯定的な答えをし、愛国心と社会的責任意識の関係に違いがみられました。北京大生は「国家としての統一を維持・強化する社会的責任が国民にある」と考え、その理由として「一体感は強さだから(Because unity is strength)」という信念をあげてくれました。その背景には、愛国教育や、自治体レベルにも浸透している共産党の影響が大きいようでした。

 

私が自分の価値観を考えるとき、それは感覚的なものであり、論理的な説明を付けることが難しいことが多々あります。その点北京大生は論理を構築するのが早く、自分の意見を説得力をもって伝えることに長けていました。彼らと議論を交わしていると、学べる点が多くあり、様々な意見を聞きながら、自分の考えも徐々に明確になりました。

明後日から始まる東京セッションでも、上記のような議論を続けていきます。自分の考えを深めると同時に、日中の差、さらには個人の差まで話し合っていきたいと考えています。

To be, or not to be

メディア分科会の金です。

ブログを更新するのが遅れて誠に申し訳ございません。激しい議論を繰り広げた北京セッションもあっという間にその終わりを迎えました。短い一週間でしたが、日本に留学している中国人留学生の私でもいろいろ予想外な発見ができ、非常に有意義な時間を過ごしました。
 メディア分科会の最終目標は「メディアを使い私たちの明日(日中関係)を変える」です。このうち日中関係については今後の東京セッションで議論します。北京セッションでは、メディア一般の議論として、私たちとメディアの関係やメディアの持つべき責任などの現状分析と、私たちがこれから期待するメディアの機能および新しいメディアのトレンドを議論しました。政府による情報規制の正当性、メディアの商業化の明暗、SNSに不正確な情報を流し社会的混乱を招いた人をどう対処すべきか、といった問題を議論するなかで、北京大生と東京大生間の明らかな差を感じました。
 例えば「政府による情報規制は正当か」という議題において、日本側は人々の言論の自由が絶対的であると主張したのに対し、中国側は情報規制は完全に良いものではないが、社会的安定を保つ為になくてはならないものと信じていました。日本側が言論の自由を絶対的であると考える背景には、第二次世界大戦時の経験がありました。一方中国側は、国民は教育が不足しているために非理性的になることがあり、社会問題やデマに対して暴動を起こしかねないから情報規制が必要だと考えていました。中国に住んだ事のない東大生にとっては理解しがたい話ですが、2012年の過激な反日デモ福島原発事故後中国国民の反応(塩を大量購入し過量摂取により致死者も頻出)を見る限り、中国における現時点の情報規制の必要性を少なからず感じました。
また、マスメディアやソーシャルメディア両方の需要が飽和しつつある日本と比べて、中国では国民消費水準の向上やメディア市場規模の拡大、都市化推進といった社会変化が生じ、またそれに応じて、中国メディアも変貌しています。特定の分野に特化・深化したメディアが多数生まれる「垂直化」、商業化の推進、個人が発信者となる「WeMedia」の誕生なども非常に興味深い話でした。中国大手メディア「凤凰网」(Phoenix)へのフィールドワークの時で聞いた話によりますと、近日で開かれた日本の有数アーキテクトである伊東さんの講演が開きました。このように、メディアが国境の垣根を越え、日中両国の影響力の高い有名人間の交流のプラットフォームを築き上げています。
東京セッションの開催まで後一週間を切っています。

両国の報道がそれぞれ日中関係にどのような影響を与えているのか、日中関係を改善するにはメディアはどうすべきなのかなどの課題をクリアしなければなりません。さらに、社会の一個人の私たちは如何にメディアを駆使し、情報の受信者だけでなく発信者として自分ならではの貢献をするのかが一番重要な事ではないかと、私は信じております。

-「正しさ」だけでは、伝えきれない? 価値観を語るためには、何よりも本音の関係構築が大切だと感じた話

こんにちは!京論壇2014若者分科会参加者の杉江です。

夏の暑さが嘘のように和らぎ、すっかり秋めいてきましたね。

大学生の夏といえば、そう!一年で一番キラキラした季節ですね!

京論壇若者分科会でも、9/5から9/6にかけて、1泊2日の夏の合宿に行ってきました。

「京論壇って、 真面目に議論ばっかりしてるんでしょ?」と誤解することなかれ。

今回はなんと、議長の誕生日をサプライズでお祝いする一大イベントを企画!

本記事では、気になる合宿の内容と合宿を通しての気付きをレポートします。

f:id:jingforum2014:20140913005154j:plain

■ゴールは、「本音で語る」

なぜ合宿をするのか?

もちろん議論を先に進めるためです。しかし、それだけではないと思います。

合宿の良いところは、普段は短い2~3時間のMTGでしか会えないメンバーが、時間を気にせず思う存分話し合えること。そして、それにも増して、文字通り寝食を共にすることで、メンバー同士の関係性をより深めるきっかけとなるということだと思います。

「4月から約半年間活動してきて、敢えて関係構築?」と思われるかもしれません。時間が限られている中でのいつものMTGでは、とにかく議論を前に進めるために効率に注力しがちですが、敢えて合宿のメリットを考えたとき、「本音で語れる関係構築」をゴールに設定しました。

 

■合宿では何をしたの? 

合宿で一番初めに行ったのは、メンバー各自、そしてチーム全体でのゴール設定でした。「京論壇を通して、自分はどうなっていたいか」「チームとして何を実現したいか」を改めて考え、キャッチフレーズとして発表し合いました。「否定されることを怖がってしまう」という問題意識を持つメンバーは“嫌われる勇気をもつ”、「いつもまとめ役に徹してしまう」というメンバーは“色を出す”などなど、個人の問題意識を反映したゴールを全体にシェアすることで、お互い意識してゴールを実現するために指摘し合う雰囲気ができて良かったです。チーム全体としては、実現したいこと・心がけることとして“Have Fun!”を設定しました。真面目なメンバーが多い若者分科会では、どうしても議論内容に集中しすぎてしまうことがあります。そんなときに、価値観をぶつけ合う議論をしながらも、心に楽しむ意識を持って、新しい気づきに心を躍らせていたい。そんな思いが込められています。

議論の本筋とは関係ありませんが、共有する価値観を持つことで「若者分科会」としての一体感も高まったと思います。

リサーチ内容を共有し、フィールドワークの目的・今後の進め方を明確にした後は、強敵・フレームワーク策定。前回の全体MTGでは、アラムナイの方に「中国側に何を聞きたいのかわからない」「個人の人生選択を扱うと、単なる『個人の価値観の違い』で終わって面白くないのでは?」など、的確かつ厳しいご指摘をいただき、再構築の必要がありました(過去記事:若者分科会 人生における「選択」の意味は? - jingforum2014's blog

 

煮詰まる中、私たちが気付いたのは、最終的なゴールの一つである「価値観の議論」をするために、個人の価値観を直接的にトピックとして扱う必要はないということです。「個人の選択(Choice)」をトピックとした場合、議論は完全に個人の経験がベースとなり、アウトプットは「私たち、議論を通してこんなに変わりました!」という内輪の気付きでしかなくなってしまいます。アウトプットを共有したとき、メンバー以外の人にとっても新たな気付きがあるような議論にするためには、ある程度の一般性があり、みんなが経験や知識として共有している社会的なトピックを扱う必要があります。私たちがいつも悩むのは、トピックの社会性と、メンバーの当事者意識のトレードオフです。トピックが社会に寄り過ぎると、主体が抜け落ちた政策提言になる一方で、個人の経験に寄り過ぎると、ただの価値観の違いに収斂してしまう虞があります。(多くの学生会議団体が抱えるジレンマだとは思いますが。)今回の合宿では、あまりに「個人」に寄っていたトピックを「社会」に寄せ、議論の過程で個人の価値観をあぶり出すことを目標にしました。このバランスは、これからも悩み続けることでしょう。

そして、今回の合宿では、念願の英語ディスカッションも実現できました!TEDを題材に、中国の新しい若い世代のトレンドについて英語を使って議論しました。なかなか言いたいことが伝わらずもどかしい思いを抱きましたが、本番の2週間の議論のシミュレーションにもなり、とても良い機会だったと思います。

 

■議長への誕生日サプライズのゆくえは?

 

なかなか真面目な話ばかりをしてしまいましたが、この合宿の大きな目的の一つは「本音で語れる関係構築」!メンバー同士で議長の誕生日(8月だけど)をサプライズでお祝いしたのでした。

合宿前にはサプライズ用の秘密LINEグループが発足し、ケーキの買い出し、クラッカー、メッセージカードの準備など、主役のあずかり知らぬところで着々と計画は進行していました。

そして当日。

早く現地入りしたメンバーは、ドッキリのシナリオを入念に打ち合わせ。これで準備はばっちり!…と思いきや、

ケーキのロウソクを灯すライターがない!ケーキ登場のタイミングがズレた!などなど、トラブル続きでグダグダに(笑)。それでもキャプテンはとっても喜んでくれたみたいで、準備したこちらも嬉しかったです。

その後も夜は長く、夜中までしっぽり語り合ったり、夜のお散歩に繰り出したり。

プライズの企画や、普段のMTGではしないような、とりとめのない話など、いつもは出来ないような経験を共有することで、メンバーの距離が更に近くなった気がしました。

 

■まとめ:ロジカルな「議論」の前提として、

思いそのままの「語り」が本音のコミュニケーションの土壌をつくる

合宿では、議論を前に進めることはもちろん、目的であった「本音で語れる関係構築」をかなり進めることができたと思います。

どんなにロジカルな議論ができていても、メンバーの中に遠慮があったり、「何だか思ったことを伝えきれていない」という不完全燃焼感があったりする場合、その議論は成功だったと言えないのではないでしょうか。考えることが得意な東大生は、議論をうまくまとめようとするあまり自分の本音の意見が見えなくなってしまったり、どこか腑に落ちないけれどもロジカルに意見がまとまっていない場合には発言をためらってしまったり、「思い」をそのままに語ることを苦手とする傾向があると思います。そんな時に必要なのは、きれいにまとめるのではなく「思い」をぶつけて良い場という相互認識、そしてメンバーは自分の「思い」を受け止めてくれるという信頼関係ではないでしょうか。もちろん、人に伝える上で議論が説得的・論理的であるべきだと思っています。ただ、その前提として、一見遠回りに見える、議論に関係ない交流や、日常の会話からぽろっと溢れる本音の語りが、「価値観の議論」に真剣に向き合える関係性をつくると信じています。